fu_33’s diary

日常で感じたことを表現します

バスより自転車が速い町

地方出身の人は特に驚くべき内容だが、京都市はバスより自転車の方が速いことがある。もちろん自転車で行ける場所は限られてる(駐輪場の無いエリアには行けない、めっぽう遠い所には行けない、等)し、その日の交通状況にも依るが、休日の昼間なんかはたいてい自転車の方がスムーズに移動できる。その原因を2つだけ挙げよう。

まず停留所の数が多い。京都は観光資源に溢れているからなのか、かなり狭い間隔でバス停がある。バスは客の乗降者のために停車を余儀なくすることになる。

そして次に挙げる原因こそが今回議論したい内容である。交通渋滞だ。京都では往々にして交通が滞る。

さて、この話の前座として、俺が京都に来てから驚いた(むしろ呆れた)ことを述べておく。それは車に対する交通弱者である歩行者が、あまりに周りに気を配らないことである。先に断っておくが、俺は歩行者が悪だとは言っていない。歩行者の大体は(歩きスマホ等を除けば)交通ルールを遵守している。守っているから悪だとは断定できない。この点は勘違いしないでいただきたい。俺がびっくりしたのは、右折車や左折車が横断帯の手前で止まっているときもノロノロと歩く人々である。俺の地元では有り得なかったことだ。地方の常識を京都に当てはめるのはナンセンスだと思うかもしれない。もっともな意見だ。都会では、ことに京都ではこのタイプの人間がスタンダードなのであろう。しかも、歩行者は別にルールを守っているし、車は人がいる横断帯の手前では止まるのがきまりである。だから問題は無いと主張してもおかしくない。

しかしだ。あまりに前述した事象が多いように感じる。この記事を読んでいる道徳的な諸君は、横断帯にいるときに車が近づいてくるような場面では(もし走れるような状態であれば)小走りか何かをするだろう。そういう姿勢が京都では全く目につかないのである。10人いて10人全員が我が道をゆっくり歩いている。はっきり言って不気味だ。10人いた場合、その中に誰か一人でも走れない状況にある人がいたなら、なるほど急いだところで意味が無い。ならば集団で横断歩道を進むときは走らなくても良いかもしれないが、では横断帯を行く者が1人だけだったらどうか。急いで渡った方が良いというのが真っ当な意見だ。だが残念なことに、俺がこういうシーンを観測したとき、その歩行者はやはりマイペースであった。観測した人は特に重たい荷物や貴重な品物を携帯しているようには見えなかった。しかも年は若く、おそらく軽い運動は可能だった。もしその人が横断帯の手前の車に気づいていないのならば大問題である。流石に交通安全への意識が低すぎる。だが、気づいていて無視しているのなら、これはこれで倫理観を疑う。早く渡ってあげれば車は余裕を持って曲がれることくらいは考えなくても分かることだ。だがノロノロと歩く。

俺はこれを一種の傲慢だと解釈している。交通弱者の傲慢だ。歩道帯ではゆっくり歩いてもルール上は問題無いから別に良い。もし自分に車がぶつかっても罪に問われるのは運転手だから大丈夫。そんな考えが染み付いてしまっているからではないか。悲しいことに、この傲慢が一番露見される瞬間がある。人が、歩行者信号は点滅しているのに歩道帯に駆け込みで進入して、それで赤信号になっても悠々と歩くときだ。彼らは歩道帯が歩行者にとっての絶対的な安全地帯だと勘違いしている。信号が赤なら通常その通行は認められていない。それなのに彼らは歩道帯上では車が譲ってくれるという考えに甘える。小学校や中学校で、道路上は予想外の危険がいっぱいだと教えてもらわなかったのか。非常事態が迫っているかもしれない状況でなぜそこまで呑気なのか。

何も歩行者に限った話ではない。自転車もすれ違う時にスピードを落とさない。これも俺の地元では全く聞かなかった話なので心底驚いた。事故さえ起こさなければ良いとでも思っているのではないか。すれ違う人に恐怖を与えることを忘れているように感じる。

ルールを守ることは当然である。歩きスマホは話にならない。だがルールさえ守ればそれで十分なのかと問いたい。俺は全く不十分だと思う。今我々に足りていないのはモラルだ。思いやりの精神だ。規則はあくまで土台であり、それだけでは快適な生活を実現しえないと肝に銘じておくべきである。

京都の交通渋滞はバスが原因として言及されることが多々ある。しかし、そのバスの遅延に歩行者が寄与してしまっていることも忘れてはならない。奇しくもバスと自転車の逆転現象が起きるこの町では、その皮肉を共有する暇もなく、バスは運行しているのである。